ナチスと精神分析学者・フロイトについて・・・フロイトの名言「どなた様にも、ゲシュタポを、心から、おすすめいたします。」

フロイト―その思想と生涯
写真:フロイト―その思想と生涯(著)ラッシェル・ベイカー
ドイツでは、ナチスはフロイトの本をワイセツだとして焼くことを命じた。チェコスロヴァキでは、フライベルクの白壁の家に付けた「フロイト誕生の家」の青銅の標識は引きはがされた。

1938年の春の、あの朝、ウィーンに入った最初のナチスの分遺隊は、ヒトラーの肖像を飾った大きな旗をもって行進して、リングシュトラーセを通って、大学の大理石の柱のそばを過ぎて行進した。

ただちにレオポルドシュタットおよびベルクガッセのノーベル・ゲットーは、恐怖に包まれた。世界の人がフロイトの安全を気づかった。アーネスト・ジョーンズはロンドンから飛行機で(当時、直接の航路がなく、プラハまで飛行機で、あとは単葉機で)やってきて、まだ、パスポートが手に入るうちに、すぐにでも家族とともにウィーンを去ることをフロイトにすすめた。

「どうして行けるでしょうか」とフロイトはきいた。

彼の四人の年老いた妹たちはウィーンにいた。ローザ、ミッチー、パウラ、およびアドルフィーネであって、そのうち、何人かは夫をなくしていて、みんないっしょに暮らしていた。彼女らは今でも日曜日の午後には彼に会いに来ていた。つねに彼の家族感情は強かった。

彼の義姉のミンナは長い間、病気だった。彼女は白内障で目が見えず、家の中を手探りで歩いていたが、視力を恢復(かいふく)させようとして、もう一度、手術を受けようとしていた。

彼の方は、十五年間もわたって、数多い手術を受け、患部の掻爬(そうは)をしてもらい、窮地に追い詰められていながらも生命を保っていた。しかし、口のなかのガンはだんだん喉にも転移しつつあった。彼は車いすにのっていことが多く、疲れすぎて歩くことができなかった。彼の頭だけは、今なお、しかっりしていて働き続けた。今でも、彼は患者を扱っていたし、今でも、彼は書き続けた。

「出かけられません。オーストリアは私の故郷です」と彼はいった。

彼は静かに、そこに残っていたいと思っていたし、彼は42年間も住んで働いてきた部屋で死にたいと思った。彼はオーストリアの土になりたいと思った。長い間、放浪してきた家系をつぐ子孫として、彼は他の故郷を知らなかった。

彼はとまどった。そして、白墨で書かれたハーケンクロイツのマークは、ベルクガッセに沿って、さらに侵入し、彼の家の戸口にも及んできた。ある朝、彼はアゴの局所を削ってもらう、辛い手術のために医者の診療所に行って、タクシーで帰宅した。

疲れ切って彼の診療所の階段を昇って行った。待合室には妻が待っていた。だが、ナチスがそこにきていたのだ。


その少し前に、ナチスは姿を現したのだがmフロイトの妻の行動は平静そのものだった。「どうぞお座り下さい」といい、食事のときだったので「何かおあがりになりますか」ときいたりした。

彼らはすでに国際精神分析学会の出版所を閉鎖していたが、彼らは、彼の本、彼の財産を没収するといい、彼のパスポートを持って行った。

もう、彼は囚われの身だった(彼のアパートの戸口には、ユダヤ人だということを示すハーケンクロイツをつけた幕が張られた)。ジョーンズの説得で英国にゆくことを決心しても、もうここを離れることはできなかった。さらに、突撃隊がどっと、ドアを開けてきて彼に千五百シリングを要求した。彼は机の中にあった金を提供し、こう言った。

「私は一回の診察のためには、そんな大金は請求しなかたですね。」(しかし、アンナが金庫に彼らを案内し、結局とられた金は六千シリングにのぼった。)

ナチスはもう一度来るといって帰った。一週間後に家宅捜査をしにきたが、このとき、アンナは一日中、拘留された。それはフロイトにとって、一生のうちでの最悪な日だった。彼は、部屋を歩きまわりながら葉巻をすい続けた。しかし、その日の日記には、「アンナ、ゲシュタポに」としか書かれていなかった。

マリー・ボナパルトの援助

彼が苦境にあるというニュースがしだいに伝わった。アメリカにおける精神分析の後継者の間では基金を設けて、フロイトがオーストリアから脱出した際には、フロイトに家と収入を確保させようとした。ローズベルト大統領がヒトラーに電報を送った。フランス駐在のアメリカ大使館のウィリアム・ブリットはパリからウィーンに飛んだ。マリー・ボナパルトのウィーンにきて、ロートシルト宮でナチスの将校と交渉を始めた。

彼らはフロイトの釈放の条件に身代金(所得税、出国税といった、すべての種類の税金の合計)を要求した。マリー・ボナパルトは、ウィーンの銀行に貯金してあった彼女の財産の一部を提供した。それは二十五万シリングだった。

最初に、ナチスの将校はもっと出せといった。それから、マリー・ボナパルトが、これがオーストリアで自分が手をつけられる全部だといって彼らを説得した。世界の圧力が彼らの貪欲を押さえたが、実際には、身代金は取られたのである。

マリー・ボナパルトは、ベルクガッセのアパートで待っているフロイトの家族の所に急いで引き返した。ついに、フロイトは自由になった。ついに、彼は出発できるのだ。ところが、困ったことが起こって、おくれることになった。ミンナ伯母さんは白内障の手術をしたばかりで、二週間は暗い部屋に寝ていなければならなかったのだ。

街々に恐怖が高まっていた。ナチスの野蛮な行為に対する恐れが増大した。またまた獣はジャングルから飛び出してきたのである。

ユダヤ人たちはウィーンの街を洗う労働に従事させられたし、男も女も子供も、肉体的苦痛を与えられて、強制収容所の悪夢が始まった。

フロイトは老いた妹たちに、自分といっしょに行くことをすすめた。彼女らは拒否した。ついに、最後の別れ、身内の者たちの最後の集まりが行なわれた。つぎつぎに彼女らは病気の老兄にキッスをした。このときの四人の女性はすべて、後になってナチスのガス室で、この世を去ることになるのだった。

フロイトがウィンを去るときに、ゲシュタポは、この文章にサインするようにといって書類を持ってきた。

「私、フロイト教授は、ドイツ国によるオーストリアの合併後、ドイツ当局者により、とくに、ゲシュタポにより、私の科学的名声を尊重して好遇を受けたこと、完全に自由に生活し仕事をなし得たこと、私の望んだすべての活動をあらゆる点で遂行し得たこと、これらに関して十分な援助を受け、何ら不満をもつ理由なきことをここに確信いたします。」

フロイトは、このナンセンスな文章に、平気でサインしたが、サインしながらこう言った。「どなた様にも、ゲシュタポを、心から、おすすめいたします。」これは、お手伝いさんを推薦するとき用いる言葉なのである。

ジークムント・フロイト(独: Sigmund Freud、1856年5月6日 – 1939年9月23日)は、オーストリアの精神医学者、精神分析学者、精神科医。オーストリアのモラヴィア辺境伯領のユダヤ人の家庭に生まれた。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、心的外傷論研究(PTSD研究)、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した。(wiki/ジークムント・フロイト

アーネスト・ジョーンズ(英: Ernest Jones、1879年1月1日 - 1958年2月11日)は、イギリスの医学者、精神科医、精神分析家。

フェレンツィの分析を受け、フロイトやユングと交流を持ち、後にフロイトの亡命を助けた。またイギリスにメラニー・クラインを招聘している。1906年には患者への性的逸脱行為を疑われ、1909年から3年間はカナダで働いている。後にイギリスに戻り、精神分析を英語圏に広め、定着させることに大きく貢献した。(wiki/アーネスト・ジョーンズ

マリー・ボナパルト(フランス語:Marie Bonaparte, ギリシャ語:Μαρία Βοναπάρτη, 1882年7月2日 - 1962年9月21日)は、フランスの作家・精神分析学者。

リュシアン・ボナパルトの孫であるロラン・ボナパルトとマリー=フェリックス・ブランの一人娘として、サン=クルーで生まれた。母マリーは彼女を出産後、塞栓で急死した。父方の祖父ピエール=ナポレオンの素行が原因で、ロランやマリーにはボナパルト家が請求する皇位継承権はなかった。しかし、母マリー=フェリックスが大富豪フランソワ・ブラン(モンテカルロのカジノやオテル・ド・パリの経営で知られる)の娘であったことから、莫大な遺産を相続していた。
 
フランス初の女性精神分析学者で、ジークムント・フロイトとの交流が深く、精神分析学の一般への浸透に一役買った。また、彼女の支援でフロイトはナチス・ドイツ支配下から亡命した。(wiki/マリー・ボナパルト
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