明治大帝のおちゃめなエピソード

民権と憲法―シリーズ日本近現代史
写真:民権と憲法―シリーズ日本近現代史
皇后春子が公式の場で一定の役割を演じ始めたのはこの時期だった。一八七三年、四月頃から女性師範学校、富山製糸場等の視察に出かけていったが、七六年の東北・函館巡行では府県境の千佳まで同行し、天皇を見送った。「長旅に出ると、それを身送る妻」、つまり「男は外、女は内」という役割分担に沿った「夫婦」を大勢の見物人の前で演じたのである。

しかし皇后は、西南戦争に綿撒糸(めんざんし)をつくって負傷兵に送ったほか、華族会館のバザーや女子学習院・慈恵病院の設立を推進し、日本赤十字の活動に積極的にかかわるなど、社会的な行動力をもっていた。家のなかで夫や舅姑に使えるだけではなく、愛国心や社会的な関心をもち行動する「国母」としての役割を皇后は率先して実践していた。

また、侍補による「内廷夜話」に同席して熱心に勉強したのをはじめ、天皇と違って多くの新聞に目を通し、西欧の王室のあり方にも関心をもっていた。天皇の嫌っていた女性の洋装にも肯定的だった。さらに、西南戦争中に天皇が政務を放棄した時や、伊藤とのあつれきが深刻化した時には、天皇と伊藤らの間に立って「調停」の労をとった。それゆえ、元田をふくめ側近たちの皇后に対する評価はきわめて高かった。

他方、「女子の運動は必ずしも西洋法を採用するに及ばず」、「従来女子教育の弊は活発に過ぐるに困る」(『明治天皇記』六)と華族女子学校のカリキュラムに注文を付けた天皇は、皇后と同列に扱われることに不満で、ベルツは次のように記している(『ベルツの日記』九一年六月六日)。

天皇は、玉座が皇后と同じ高さにあることを、どうしても承服されなかった。それよりも、高くせよとのことなのだ。ところが、井上〚肇〛伯はそれに反対だった。ある時、伯が参内したところ、玉座の下に厚い絹の敷物がこっそり置いてあるのを発見したので、伯はこれを引きずりだして、室のすみに放り投げたが、これがため、大変な騒ぎが持ち上がったことはいうまでもない。

(参照:民権と憲法)

井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日(1836年1月16日) - 大正4年(1915年)9月1日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、実業家。本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏。首相・桂太郎は姻戚。同時代の政治家・井上毅や軍人・井上良馨は同姓だが血縁関係はない。 幼名は勇吉、通称は長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)。諱は惟精(これきよ)。太政官制時代に外務卿、参議など。黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣など、要職を歴任した。栄典は従一位大勲位侯爵、元老。
明治大帝のおちゃめなエピソード 明治大帝のおちゃめなエピソード Reviewed by 管理人 on 19:19:00 Rating: 5

0 件のコメント: