写真:民権と憲法―シリーズ日本近現代史 |
しかし皇后は、西南戦争に綿撒糸(めんざんし)をつくって負傷兵に送ったほか、華族会館のバザーや女子学習院・慈恵病院の設立を推進し、日本赤十字の活動に積極的にかかわるなど、社会的な行動力をもっていた。家のなかで夫や舅姑に使えるだけではなく、愛国心や社会的な関心をもち行動する「国母」としての役割を皇后は率先して実践していた。
また、侍補による「内廷夜話」に同席して熱心に勉強したのをはじめ、天皇と違って多くの新聞に目を通し、西欧の王室のあり方にも関心をもっていた。天皇の嫌っていた女性の洋装にも肯定的だった。さらに、西南戦争中に天皇が政務を放棄した時や、伊藤とのあつれきが深刻化した時には、天皇と伊藤らの間に立って「調停」の労をとった。それゆえ、元田をふくめ側近たちの皇后に対する評価はきわめて高かった。
他方、「女子の運動は必ずしも西洋法を採用するに及ばず」、「従来女子教育の弊は活発に過ぐるに困る」(『明治天皇記』六)と華族女子学校のカリキュラムに注文を付けた天皇は、皇后と同列に扱われることに不満で、ベルツは次のように記している(『ベルツの日記』九一年六月六日)。
天皇は、玉座が皇后と同じ高さにあることを、どうしても承服されなかった。それよりも、高くせよとのことなのだ。ところが、井上〚肇〛伯はそれに反対だった。ある時、伯が参内したところ、玉座の下に厚い絹の敷物がこっそり置いてあるのを発見したので、伯はこれを引きずりだして、室のすみに放り投げたが、これがため、大変な騒ぎが持ち上がったことはいうまでもない。
(参照:民権と憲法)
井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日(1836年1月16日) - 大正4年(1915年)9月1日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、実業家。本姓は源氏。清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む安芸国人毛利氏家臣・井上氏。首相・桂太郎は姻戚。同時代の政治家・井上毅や軍人・井上良馨は同姓だが血縁関係はない。
幼名は勇吉、通称は長州藩主・毛利敬親から拝受した聞多(ぶんた)。諱は惟精(これきよ)。太政官制時代に外務卿、参議など。黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣など、要職を歴任した。栄典は従一位大勲位侯爵、元老。
明治大帝のおちゃめなエピソード
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