方法序説論の意義

方法序説
写真:(方法序説論
『方法序説』は次のようなことばで始まっている。

「良識はこの世でもっとも公平に分配されているものである。・・・正しく判断し、真偽を弁別する能力ーこれがまさしく良識、もしくは理性と呼ばれるところのものだがーは、生まれながらに、すべてのひとに平等である。」(本書10ページ)

すなわちデカルトはあらゆるひとに理性、換言すれば考える力を認めたのであって、これはまさに思想の領域における「人権宣言」であった。それまでひとは、神によって選ばれたものだけが真理を認識する能力を持ち、したがってひとを教え導くことができるので、その他のものはその教えに黙って服従すればよいと考え、かつそう説いてきた。いや、デカルト以後にあっても、こういう思想は根づよく残っている。たとえばジャンセニスト(パスカルを含めて)は、人間は神の啓示なくしては真理の認識に到達できないと考えている。現代においてさえ、ファシストたちは、人民は愚民であり、限られた少数指導者だけが、真理を知っているので、人民は黙って、文句ひとついわずに、彼らの後についてくればよいと考えている。

すべての人間が「正しく判断し、真偽を弁別する能力」を生まれながらにそなえてるとするならば、この理性が真実と認めるところだけを真実として認め、いささかでも疑わしいところのあるもの、「単に真実らしいというにすぎないものは、すべてほぼ虚偽と見なし」(本書19ページ)てこれらを捨てるべきであることはいうまでもない。だからこそデカルトは、かれの方法の第一原則として「わたしが明証的に真理であると認めるものでなければ、どんな事柄であってもこれを真実として受け容れないこ」(本書35ページ)という準則を立てたのである。これは「方法的懐疑」と呼ばれているところのものであるが、この原則の持つ歴史的意義はどこにあるのか?

それはこの方法がいっさいの外敵権威の否定であったところにある。それまでひとは、それが神の啓示なるがゆえに、それが聖書のなかに書かれていることであるがゆえに、それがアリストテレスないしはトーマス・アクイナスの説なるがゆえに、それは真実であり、無条件に受け容れられなければならぬと主張してきた。このような思考方法こそ、かのスコラ哲学、封建思想の本質をなすものであった。デカルトはこのようないっさいの外的権威を否定し、思想の独立を宣言したのであった。

このような思想変革がどのように大きな意義を持つものであるかは、フランス、一般的にヨーロッパにおけるような社会的・思想的変革を閲しなかった日本の現実を見れば明らかである。およそわが国の知識階級ほど、もの知りで、理屈はよくこねるが、権威にたいして弱い人種はない。かれらは、えらいひとのいったことだとか、「権威ある」新聞や雑誌に印刷されていることだとか、外国で流行している思想や文学だとかは、ただそのことだけでそれを無批判に受け容れてしまう。独自にものを考え、判断し、自己の信念を持って行動するという習慣がかれらの間には至って乏しい。だから「信用ある」新聞やラジオの報道に、てもなく欺かれてしまうのである。

 引用:(方法序説

ルネ・デカルト(仏: René Descartes、1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。

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