〚書籍〛『資本論』を読む 味方も敵も『資本論』を読み続けている

『資本論を読む』を読む 
写真(資本論を読む
名著『資本論を読む』(1965)の冒頭で、アルチュセールはつぎのように述べている。

われわれは皆『資本論』を読んできたし、今も読んでいる。もうすぐ百年になろうという年月に、われわれの歴史のドラマと夢のなかで、論争と対立のなかで、いまもわれわれの唯一の希望にして運命である労働運動の挫折と勝利のなかで、われわれは毎日、誠実に『資本論』を読んできた。われわれが「この世に生まれて」このかたずっと、上手下手はともかくわれわれのために『資本論』を読んでくれた人々の著書や言説をたよりにして、われわれは『資本論』を読み続けている。その種の人々は、時代遅れのものもいれば、まだ生き続けているものもいるが、エンゲルス、カウツキー、プレハーノフ、レーニン、ローザン・ルクセンブルク、トロツキー、スターリン、グラムシ、労働者組織の指導者たち、彼らの味方敵、哲学者、経済学者、政治家、などがそうである。

実際、世界中でそれこそ味方も敵も『資本論』を読み続けている。アルチュセールは哲学者として、構造主義の見地から読み、問いを発している。不破哲三は、理論家的政治家として、一連のゼミナール・講義をおこない、『「資本論」全三部を読む』(全七冊、2003-04)をとりまとめている。本書は、一経済学者の観点で『資本論』を読むことになる。

『資本論』は、まえがきでも述べたように、カール・マルクス(1818-83)のライフワークであり主著である。マルクスは、ベルリン大学法学部で学びながら、哲学と歴史、ことにヘーゲル哲学に傾倒する。ヘーゲルは、すでに1831年に死去していたが、ドイツ古典哲学の頂点において、精神現象、自然現象および社会現象のすべてを絶対精神(理念)の自己実現の過程における矛盾の発展として、弁証法の理論で把握する壮大な体系を構成していた。その後継者たちのうち、右派はこれをプロイセン国家の現在秩序の正当化に用いていたが、左派はキリスト教による中世以来の抑圧からの人間解放を求め、宗教批判をすすめていた。ことにフォイエルバッハの『キリスト教の本質』(1841)は、友情や愛情といった人間に普遍的で崇高な心情が理想化され外化された結晶がキリスト教の神であり、神を人間の創造主とみなす物神崇拝から人々は解放されなければならないと主張し、ヘーゲルの観念哲学を人間主義的唯物論へ転倒しつつあった。マルクスはこうしたヘーゲル左派の見地に深い感銘を受け、ほぼその観点で古代ギリシャの自然哲学を考究した論文で博士の学位を取得している。しかしその後、『ライン新聞』で論説を書くなかで、現実社会のなかで生じている人間の抑圧は、自然的存在としての人間主義一般やそれによる宗教批判のみでは、十分理解も解決もできないことを実感して、パリに転居し、二歳年下のエンゲルスと親交を深めつつ、イギリスの古典派経済学、フランスの社会主義を本格的に研究しはじめる。こうしてマルクスの思想と理論は、当時のヨーロッパ啓蒙思想の発展のうちにあらわれたドイツ古典哲学、フランス社会主義、イギリス古典派経済を三つの源泉として形成されてゆく。

(引用:資本論を読む
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