朝鮮戦争を戦った日本人

米原昶衆議院議員
今まで総理が否定し続けて来られた問題について一点お聞きしたいのであります。それは朝鮮の事件に対しては、日本からたとえば警察予備隊なり、日本人を兵隊として送り出したことはない。また今後も警察予備隊というようなものを出すことはないということを、今まで外務委員会でも、政府は、ことに吉田総理は、はつきりと答えられて来たのでありますが、最近の平壌発の電報によりますと、日本人が一人朝鮮の戦線において捕虜になつたことが発表されておる。今までも朝鮮において日本人が出ておるというようなことは、新聞で伝えられたことはあります。しかしそれは二世であるとか、何かの間違いだというふうに弁解されておつたのであります。ところが、今度発表されておるのを見ますと、これははつきり日本人だということを当人が語つておつて、そうしてしかも名前から住所から生年月日から、全部はつきりしておるのであります。こういう事態がはつきり報道されておるので、私はこれを政府に聞きたいのであります。それはこういう事件であります。  

この九月四日に朝鮮の西部戦線で捕虜になつた安井タツフミという一等兵がある。これが朝鮮戦線に日本から強制的にかり出されたいきさつを次のように語つておるという電報であります。それによりますと、私の本籍は大阪市生野区大友町七十八番地であり、現住所は大阪府の布施市長堂一丁目三番地である。母親はケイ子というのでありまして、十人家族で住んでおる。私は大阪市でミシン修理工をしていたが、朝鮮戦争が勃発して間もなく、われわれ日本人青年たちは、いわゆる韓国義勇軍の名目で朝鮮戦線に動員された。そうして私は第二回韓国義勇軍として朝鮮戦線にかり出された。われわれの部隊は二千余名によつて編成されておるが、そのほとんどが二十才以上三十才以下である。昨年九月二十五日米軍第七師団で軍服を渡され、埼玉県朝霞に三日間とまり、米軍からテントの張り方を習い、再び横浜に行つてから船に乗り、米軍監視のもとに仁川に引きずられて来た。仁川に到着したわれわれは、それぞれ分散されて国連軍部隊に配置された。私が所属していた二十名の隊列は米軍第三百三十部隊にとどまつていたが、ここで約一箇月たつたころ、大邱から大量の朝鮮人部隊が来るようになつた。これらの部隊は五十六部隊、八十五部隊という名前を持つた部隊であるが、実は西日本において訓練を終えて来たものである。その後再び移動して京城に約一箇月おり、さらにここから移動して一週間訓練を受けたというようないきさつがずつと書いてあります。ここで特に朝鮮語を教えられて、前線で捕虜になつた場合に、日本人であることを頑強に否定して、朝鮮人であることを最後まで固持せよという命令が出て、本籍から父親、母親の名前まで朝鮮名前を教えられたということを言つておる。その後数回にわたつて移動した結果、最後に九月四日前線に動員されて、高地争奪戰で中共軍の捕虜になつた。こういうことをしやべつておるという非常に詳しい電報であります。これはもう名前から住所の番地まではつきり出ておるのでありまして、非常に重大なものだと思う。

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