巨匠フルトヴェングラーと帝王へルベルト・フォン・カラヤン、すくなくともフルトヴェングラーはナチスの党員にはならなかった。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの経歴
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ドイツの指揮者、作曲家 ベートーヴェン、ワーグナー、ブラームスを尊敬していたフルトヴェングラーは、自身を作曲家とみなしていた。作曲家としては評価されているとは言い難いが、近年では録音も増えつつある。長大な作品が多く、3つの交響曲、交響的協奏曲、ピアノ五重奏曲は演奏に1時間以上を要する。wiki/ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
カラヤンといえば、よく知られているように、30年以上にわたってベルリン・フィルの常任指揮者の地位にあり、ウイーン国立歌劇場の舞台監督も努めた、まさに世界の音楽界に君臨する「帝王」であった。日本でも1954年に来演して以来、11回におよぶ公演をおこない、多くの熱心なファンを擁している。
ところがカラヤン死して二十日ばかりの後、新聞上に(89年8月4日付朝日新聞)、次のような記事が掲載された。
「カラヤン氏について、米司法務省が死去までの数ヶ月にわたってナチスとのかかわりを調査していたことが三日明らかになった。同氏が死亡したため真相は不明のまま、調査に終止符が打たれたことになった。・・・・カラヤン氏が生前に語った経歴によると、同氏はアーヘン国立歌劇場の音楽監督に任命された1935年、ナチスの圧力で入党し、数ヵ月後に脱党したという。しかし今回の調査が始まるきっかけとなった申し立てによると、同氏は33年にオーストリアで入党し、さらに翌年ドイツで再入党。ナチスのナンバー2といわれたゲーリングの支持を受け、華麗な経歴の一歩を踏み出したとされる」
実はカラヤンのナチスとの関係について公然と問題視されたのは、今回が初めてではない。たとえば1955年、カラヤンが西ドイツ首相アデナウアーの後援のもとにアメリカ演奏旅行をおこなったとき、カーネギー・ホールの前でユダヤ人が反カラヤンのデモンストレーションを敢行したことがある。彼らのビラにも、前述の記事と同様の内容が書かれていたという。真実はどうなのであろうか。
この問いには、単なるこまかい詮索のためのものではない。入党の年が35年か33年かということは、重要な問題だからである。
33年はナチスが政権を掌握したばかりのときであり、そのとき入党したとすれば、かなり自発的にナチスを支持していたことを意味する。これに対して、35年にはナチスの政権が打ち固められており、この時期の入党であれば、よんどころなかったとか、あるいは不和雷同の結果だったといえる余地があるからである。
カラヤンとナチスの関係について、詳細な研究をおこなっているのが、ロバート・C・バッハマン『カラヤン栄光の裏側に』である。 (引用:ナチス追及―ドイツの戦後 (講談社現代新書)より)
ヘルベルト・フォン・カラヤンの経歴
ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908年4月5日 - 1989年7月16日)は、オーストリアの指揮者。1955年より1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占し、多大な影響力を持つに至った。20世紀のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、日本では「楽壇の帝王」と称されていた。また、その独自の音楽性と自己演出は「カラヤン美学」と謳われ時代の寵児にもなった。 wiki/ヘルベルト・フォン・カラヤン
天声人語、フルトヴェングラーの記事
音楽が人々を奮るわせる様子を目にすると、政治家は禁欲を忘れる。ヒトラーは自国の指揮者フルトヴェングラーに一方的に心酔した。ナチスが策をろうしヒトラーの生誕を祝う会でタクトを振らせる。ベートーベンの「第九」を指揮する姿を映画に収め、国威発揚に使った。指揮者は戦後、ナチスに協力した疑いで法廷に立たされた。(引用:天声人語2016・5/10)ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの経歴
写真:wiki/ヴィルヘルム・フルトヴェングラー |
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ドイツの指揮者、作曲家 ベートーヴェン、ワーグナー、ブラームスを尊敬していたフルトヴェングラーは、自身を作曲家とみなしていた。作曲家としては評価されているとは言い難いが、近年では録音も増えつつある。長大な作品が多く、3つの交響曲、交響的協奏曲、ピアノ五重奏曲は演奏に1時間以上を要する。wiki/ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
楽壇の帝王カラヤンは自発的なナチス党員だったのか
1989年7月16日、へルベルト・フォン・カラヤンが81歳で死去した。カラヤンといえば、よく知られているように、30年以上にわたってベルリン・フィルの常任指揮者の地位にあり、ウイーン国立歌劇場の舞台監督も努めた、まさに世界の音楽界に君臨する「帝王」であった。日本でも1954年に来演して以来、11回におよぶ公演をおこない、多くの熱心なファンを擁している。
ところがカラヤン死して二十日ばかりの後、新聞上に(89年8月4日付朝日新聞)、次のような記事が掲載された。
「カラヤン氏について、米司法務省が死去までの数ヶ月にわたってナチスとのかかわりを調査していたことが三日明らかになった。同氏が死亡したため真相は不明のまま、調査に終止符が打たれたことになった。・・・・カラヤン氏が生前に語った経歴によると、同氏はアーヘン国立歌劇場の音楽監督に任命された1935年、ナチスの圧力で入党し、数ヵ月後に脱党したという。しかし今回の調査が始まるきっかけとなった申し立てによると、同氏は33年にオーストリアで入党し、さらに翌年ドイツで再入党。ナチスのナンバー2といわれたゲーリングの支持を受け、華麗な経歴の一歩を踏み出したとされる」
実はカラヤンのナチスとの関係について公然と問題視されたのは、今回が初めてではない。たとえば1955年、カラヤンが西ドイツ首相アデナウアーの後援のもとにアメリカ演奏旅行をおこなったとき、カーネギー・ホールの前でユダヤ人が反カラヤンのデモンストレーションを敢行したことがある。彼らのビラにも、前述の記事と同様の内容が書かれていたという。真実はどうなのであろうか。
この問いには、単なるこまかい詮索のためのものではない。入党の年が35年か33年かということは、重要な問題だからである。
33年はナチスが政権を掌握したばかりのときであり、そのとき入党したとすれば、かなり自発的にナチスを支持していたことを意味する。これに対して、35年にはナチスの政権が打ち固められており、この時期の入党であれば、よんどころなかったとか、あるいは不和雷同の結果だったといえる余地があるからである。
カラヤンとナチスの関係について、詳細な研究をおこなっているのが、ロバート・C・バッハマン『カラヤン栄光の裏側に』である。 (引用:ナチス追及―ドイツの戦後 (講談社現代新書)より)
ヘルベルト・フォン・カラヤンの経歴
写真:wiki/ヘルベルト・フォン・カラヤン |
ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908年4月5日 - 1989年7月16日)は、オーストリアの指揮者。1955年より1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の総監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占し、多大な影響力を持つに至った。20世紀のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、日本では「楽壇の帝王」と称されていた。また、その独自の音楽性と自己演出は「カラヤン美学」と謳われ時代の寵児にもなった。 wiki/ヘルベルト・フォン・カラヤン
音楽、巨匠フルトヴェングラーと帝王へルベルト・フォン・カラヤン
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