虚構を心ならずも創作したケース
日本軍は、米兵が上陸した頃、二、三カ所で歩哨戦を演じたことはあったが、最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した (鉄の暴風)
戦後69年の夏。今月6日、一人の「帝国軍人」が逝った。先の大戦末期の沖縄戦で座間味島の守備隊長を務めた元陸軍少佐で、住民に集団自決を命じたとする事実無根の「汚名」を着せられた梅沢裕(ゆたか)さん。「日本軍=冷酷非道な悪」という戦後日本の凝り固まった言論空間に抗い、軍人らしく戦い抜いた生涯だった。
梅沢さんは合理的な作戦を練る指揮官だった。沖縄戦以前に1人も戦死者を出さなかったことを誇りとし、沖縄戦に際しても「特攻はやらない」と犠牲を少しでも減らす作戦を上層部に提案、認めさせた逸話をもつ。そんな生粋の帝国軍人に理不尽なぬれぎぬが着せられた。
戦後まもなく刊行された「沖縄戦記・鉄の暴風」で、慶良間諸島の座間味、渡嘉敷両島で起きた集団自決は軍命令だった-と初めて記述され、次々と他の文献に引用された。ノーベル賞作家、大江健三郎氏も現地取材を一切しないまま自著「沖縄ノート」(岩波書店、昭和45年初版)に文献を引用し、名指しを避けながらも命令者を「戦争犯罪者」「罪の巨塊」などと指弾した。
真相は全く違う。米軍上陸の前日夜、自決用の弾薬や手榴(しゅりゅう)弾の提供を求めた村の助役ら5人に対し、梅沢さんは「死ぬことはない。避難してくれ」と断った。戦後、現場にいた伝令役の住民も同様の証言をし、5人のうち生き残った女性も弾薬の提供は受けられなかった、と告白した。
しかし昭和33年、隊長の自決命令を報じた「週刊朝日」の記事を初めて読んだ梅沢さんは驚き、苦しんだ。「お国のために戦ったのに、なぜ事実がゆがめられるのか」。それでも沖縄への慰霊の旅を続ける中、苦しい生活だった住民が援護法に基づく遺族補償を得るために軍命令という虚構を心ならずも創作した事実を聞く。
(引用:産経新聞)
梅沢さんは合理的な作戦を練る指揮官だった。沖縄戦以前に1人も戦死者を出さなかったことを誇りとし、沖縄戦に際しても「特攻はやらない」と犠牲を少しでも減らす作戦を上層部に提案、認めさせた逸話をもつ。そんな生粋の帝国軍人に理不尽なぬれぎぬが着せられた。
戦後まもなく刊行された「沖縄戦記・鉄の暴風」で、慶良間諸島の座間味、渡嘉敷両島で起きた集団自決は軍命令だった-と初めて記述され、次々と他の文献に引用された。ノーベル賞作家、大江健三郎氏も現地取材を一切しないまま自著「沖縄ノート」(岩波書店、昭和45年初版)に文献を引用し、名指しを避けながらも命令者を「戦争犯罪者」「罪の巨塊」などと指弾した。
真相は全く違う。米軍上陸の前日夜、自決用の弾薬や手榴(しゅりゅう)弾の提供を求めた村の助役ら5人に対し、梅沢さんは「死ぬことはない。避難してくれ」と断った。戦後、現場にいた伝令役の住民も同様の証言をし、5人のうち生き残った女性も弾薬の提供は受けられなかった、と告白した。
しかし昭和33年、隊長の自決命令を報じた「週刊朝日」の記事を初めて読んだ梅沢さんは驚き、苦しんだ。「お国のために戦ったのに、なぜ事実がゆがめられるのか」。それでも沖縄への慰霊の旅を続ける中、苦しい生活だった住民が援護法に基づく遺族補償を得るために軍命令という虚構を心ならずも創作した事実を聞く。
(引用:産経新聞)
虚構を創作する動機
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16:08:00
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