ヨーロッパに住む人の20人に1人はホロコーストについて何も知りません

写真:映画ヒトラーの洗礼(原題:amen)

ドイツ大使館
 ヨーロッパに住む人の20人に1人はホロコーストについて何も知りません。
#ホロコースト犠牲者を想起する国際デー

 〚PDF〛東ドイツに帰国した亡命ユダヤ人たちより


クルト・グートマン


父親は第三帝国成立前に死亡し、未亡人となった母親は一人でこの苦難にたちむかうことになった。彼女は頭のよい人で1934年にはこれから何が起こるかわかっていたという。「自分のもっているものを人と分かち合いなさい」と言うような人だったが、もうそんなことは出来ない時代だった。


母親は子供を育てること自体に不安をもっており、ある時ナチの若者が、家の窓のところで騒いでいたことから希望を失って、自殺を図ったこともあった。彼は学校から帰ってくるたびに、母親が死んでいるのではないかと不安だった。


ナチが行うパレードなどで出される、ユダヤ人の処刑を模した山車は幼心にとても怖いものだった。パレードの時に街にでても身の危険を感じることはなかったのは、彼が金髪で青い目をしており、ステレオタイプ化された「ユダヤ人顔」ではなかったためである。


小学校(プロテスタント系)ではクラスでユダヤ人は彼一人だった。成績は良かった。彼が8歳の時、学校で校長と担任に手ひどい扱いを受けたことがある。校長は、教員試験も受けていない教育もない SA(突撃隊)の党員で、担任の歴史と体育を教える教師も反ユダヤ主義者だった。ある日、この担任に校長のところにいって課題をもらってくるように言いつかった。校長はドイツの少年はなんていって挨拶するんだね、と「ハイル・ヒトラー」と言わせようとしたが、彼が黙っていると、ムチでたたいた。結局課題を聞けずに教室に戻った彼は、今度は体育教師にムチで指をたたかれた。


このような教師からのいじめだけではなく、子供たちによるいじめもしばしばあった。彼は腕力が強かったので、他の子供たちのいじめにあっても、「卑怯者、一人ずつかかって来い」といって利腕の左手で相手の頭を抱え込んで、右手でいじめた子供を殴ったこともあった。ある日、突然後ろから集団で襲われ、かばんで何度も殴られたことがある。この体験から、今でも突然後ろから人に肩をたたかれると非常にドキッとするという。


いじめに加わらなかった子供が一人いたが、その子供も薄暗くなってから遊んでくれただけだった。その子供は共産主義者の鉱山労働者の子供で、彼も他の子供たちから疎外されていた。彼が10歳の時に、子供たちが彼にむかって「ユダヤの血が刃先にほとばしる時、また素晴らしい世界となる(Und wenn das Judenblut vom Messer spritzt, dann geht’snoch mal so gut)」とはやしたててきた。これが歌の全部かわからないが、彼はこのことを一生忘れられない。



クルト・グートマン:Kurt Gutmann

(1927年ニーダーラインのクレーフェルト生まれ)

父親は早く亡くなり、母親は遺族年金で生活。三人兄弟。次兄はグラスゴーの慈善孤児院へ。クルトはキンダートランスポートで兄と同じ孤児院へ。長兄は出国出来ず、母親とともにルブリン近くの中継強制収容所に入れられたが、死亡地は不明。帰国後通訳や翻訳家として働く。


彼は1944年末、イギリスでドイツ共産党員になった。党は半合法であったため、非合法的に共産党員となったことになる。48年にイギリスでの除隊後DDRに帰国したが、切符は自費で払った。彼は機械工として53年まで働いたが、その間2年ほどヴァイセンゼーのピオニール組織の指導者となった。このピオニール活動で後に妻となる女性(非ユダヤ人)と知り合った。彼女も西ベルリンでのピオニール指導者だった。彼女の両親はともに労働者で、父親は共産党員だった。彼女は幼稚園教諭の資格取得のために専門学校で学んでいた。50マルクの奨学金を得たが、それが通貨改革のために5マルクとなってしまい、そのために東ベルリンに住み、勉強を続けた。


1949年中央評議会が彼に FDJ(独)で働かないかと声をかけてくれたことがある。知人が彼のことを推薦してくれ、ハインツ・ケスラー(DDR の FDJ 創設メンバー。後の国防大臣)が是非にと、言ってくれた。しかし人事課の責任者は、海外に亡命していた人は採用しない方針で、駄目になった。ケスラーは当時第一書記であったホーネッカーの代理で、断った人事課の責任者よりも地位が高かったにもかかわらず、人事課の人物はグートマンがイギリス軍にいたことを問題にしたようだ。

人事課の責任者は、「ナチにより家族が殺された人間がドイツに戻ってくるなんて」と言ったが、スパイにしては若すぎるグートマンのことが不可解のようだった。


その後、彼は通訳・翻訳の仕事についたが、スランスキー裁判の際は、彼は幹部でもなかったため、問題がふりかかることは全くなかった。しかし、イギリス軍にいたという経歴などのせいで、彼は彼の知識や能力に見合った職業的地位には就けなかった。通訳としては責任ある地位にあったが、彼は満足はしておらず、もしそのようなことが問題にされなければ、部局長ぐらいにはになれたかもしれないと思っている。


ヒトラーとの闘いでは自分のできることはしたと考えている彼は、筆者がウルズラ・ヘルツベルク⑩の息子など数人のユダヤ人のインタヴュー記事18)を見せた際、非常に強い反応を示した。DDR で生まれたユダヤ人や、オーストラリアから戻ってきたユダヤ人女性(ザロメア・ゲニン)などが、それぞれ DDR で経験した反セム主義について語っている記事である。特に、ゲニンは DDR への批判的な立場で執筆活動をしている女性である。


彼はこれを読んで、「こういうばかげた発言に反論することができるから、そのためにドイツに帰ってきたんだ」と言った。彼の最大の関心は、何よりも反ファシズム的ドイツの建設であった。彼は DDR でユダヤ人であることを隠したことはないし、そもそも隠す必要などもなかった。それに対して、西ドイツでは反セム主義が目についた。1965年在 DDRの中国の通信社に勤めていた時、その中国人グループの通訳の仕事で2週間ほど西ドイツに行ったが、反セム主義のスローガンがドアに書かれていたのを見た。またニュルンベルク法案成立にかかわったグロプケがアデナウアーのブレーンであることも許しがたい思いだった。西ドイツではナチに加担した裁判官、将軍などがなお多く主要なポストを占めていたのである。


DDRでは反セム主義はなかったが、彼はただ一度だけ反セム主義的事件を経験したことがある。それはマリア昇天の日、ライプチヒに行った時だった。「ナチ被迫害者」の徽章をつけていたら、「俺は65歳まで働かなければならないのに、お前は45歳で――事実は違うが、彼はそう考えていたようだ――年金を受け取る。太った豚め、机の前に座っているだけで、働いたこともないだろう」、「お前の母親はアウシュヴィッツでガス殺されていないだろう」、「お前をガス殺し忘れた」と一人の男が言いがかりをつけてきた。これは、とてつもない侮辱だった。彼を警察に突き出そうとしたが、一瞬の隙に、突然顔を殴られた。鼻の骨を折り、眼鏡が壊れた。今でもその位置に眼鏡があたると痛むという。


その相手の男は逮捕され、9か月の懲役刑となった。彼はウェイターをしている男だった。裁判で男の父親は「狼砦」で戦死したことが分かったが、父親が親衛隊将校だったことは明らかである。それまでもその男はユダヤ人に対してその類の罵詈雑言を浴びせていたようだが、初めて言い返されたとも言っていたという。


東西両ドイツの統一後は反セム主義が頭をもたげ、筆者とのインタヴューの前日(2004年11月)、また彼の車に「ユダヤの豚」という悪辣なスローガンが書かれたという。


引用:PDF 東ドイツに帰国した亡命ユダヤ人たちより


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