女性政策 ヒットラー ・ナチスドイツ重要政策 

解放からの解放
1.ヴァイマール時代の解放
* ヴァイマール共和国はドイツ人が全く期待していなかった時期に誕生し、普通選挙権は女性が全く予期していなかった時期に法制化された。母親たちの世界も変わった。婦人参政権、経済的・社会的に解放された「新しい女性」の登場、出生率の低下に対するパニック、雇用形態の変化は、いずれも社会を揺るがす要因となった。ドイツ女性は主要国の女性の中で最初に参政権を獲得したが、民主主義も男女平等も、敗戦に打ちひしがれたドイツではそれほど大きな支持を受けなかった。

* ナチズムの出発の時期は 1918 年から 1919 年にかけての冬とされる。当時の大多数のドイツ人の現実を特徴づけていたのは、降伏の傷あとや経済的な苦難、それに政治的な苦難だったが、心情的にはまだ戦争中の勝利の余波の中にいた。狂信的な排外主義のスローガン、勇敢な兵士やたくましい女性のイメージ、愛国心への賛歌や犠牲心への訴えのなかに生きていた。飢餓、侵略への恐怖、革命および経済的破綻を経験しながらも、ドイツ人は戦時中のプロパガンダが作り上げた夢にしがみついていた。1914 年の愛国心にたいする記憶は 1918 年の屈服という苦々しいショックに取って代わられた。

備考: ベルリンでの 1 月闘争が開始された翌日の、1919 年 1 月 5 日、ミュンヘンで「ドイツ労働者党」(Deutsche Arbeiterpartei=DAP)創立される。この 1 月闘争が終わった翌々日の 1 月 15 日に、ローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒトが反革命義勇団によって惨殺された。9 月 16 日にアドルフ・ヒトラーが 55 番目の党員として入党している。

* ドイツの参謀本部が長期戦を覚悟した1916年以降、政府は戦時局に女性を採用し、戦略的に重要なポストに配置している。一夜にして女性が男性の労働を行うことが許可されたばかりでなく、それを要求されるようになった観があった。1908 年までは、政治が議論となる恐れのある集会への女性の参加は禁じられ、大学での学位取得の道も閉ざされていた。

注: ハイデルベルク大学とフライブルク大学(女子入学を許可した最初の大学)の女子学生の割合は、第一次世界大戦中に学生全体の 6%から 35%に上昇している。(Ursula von Gersdorff, Frauen im Kriegsdienst, Stuttgart1969)

皮肉なことに、数百万人もの若い男性の命を奪った第一次世界大戦は、女権の唱道者たちが何十年もの間要求し続けてきた地位と自立とを女性に与え、何百万人もの 女性を解放したのであった。男たちが死地に赴いていた頃、女たちは男性の職場を盗み、大学での学籍を手に入れ、家庭での主導権を奪った。女性は「生まれながらにしてかよわいもの」という考えは抹消されてしまった。女性にとっての進歩は、男たちの塹壕戦や社会全体での飢餓、窮乏、社会秩序の崩壊、敗戦という状況のもと形成されていった。

1918 年 11 月の停戦によって 600 万人もの兵士が帰国した。誰もが職に就かなければならなかった。女性が行っていた労働を男性が取り戻そうとしたとき社会革命が起こった。ある女性社会主義者は「パンと労働をめぐって男女間の間に戦争が起こった」と回想している。(Matilde Wurm, “Freiheit” 1920)

労働組合、著名な作家、政治家、政府の閣僚、それに企業家は豹変し、「男性の仕事」に関わっていた女性の追放に一致して協力した。しかし、戦争未亡人、戦場から帰国した夫に離婚された妻、未婚の母、戦後の若い男性不足によって生じた約 200 万人の「過剰な独身女性」など、自立を経験し国家の重要な構成員として賛辞をうけた後で、女性が昔の生活に戻ることは困難だった。

「ベルリンにまで出ていった女たちを台所に連れ戻せるはずがないでしょ?」 (Atina Grossmann,” The New Woman, the New Family and the Rationalization of Sexuality”, from Rutgers dissertation 1983)

備考: ヴァイマール共和国の 10 年、文学世界に、心理的世界に、視覚的世界に、多大な貢献をなした人々を輩出し、その 10 年間にドイツの科学者は7 つのノーベル賞を受賞した。しかし、敗戦が引き起こした経済不安と政情不安を経験していた平均的なドイツ人にとっては、共和国のこうした知的および文化的な功績は殆ど意味がなかった。

2.女性の政界進出

* ワイマール共和国の比例代表制は、女性候補に有利に働いた。戦前から婦人参政権を支持していたのは社会主義者だけであったが、他の諸派も女性の政治参加が避けがたくなっていることを悟り、建前上は歓迎した。女性問題は政治家の中でもだんだん重要な位置を占めるようになった。

* しかし、女性有権者がそれをぶち壊している。全国規模のプロテスタント女性組織の会長、パウラ・ミュラー=オトフリートは、長年婦人参政権に反対してきたが、1919 年の憲法制定国民議会選挙に立候補し当選した時に、参政権が女性の運命をより良くすることは無いだろうと、水を差している。

* アメリカ合衆国との比較においてもドイツの実績は群を抜いていた。1917 年から1976 年までにアメリカの連邦議会の議員になった女性は 95 人いるが、そのうち 37人は夫の後を継いだ未亡人だ。ドイツでは 1919 年から 1932 年にかけて 112 人の女性が国会議員になり、国会議員全体の 7%から 10%を占めていた。ヴァイマール

政治の他の面と同様に、女性に関する政策は世界で最も進歩的と思われたし、10 年以上にわたってこの体制は機能し続けた。社会主義者、自由主義者、保守主義者の 全てが内乱と経済破綻を恐れていた間は、主義主張の著しく異なる政敵同志も妥協点を見出すことができたのである。

* アメリカの社会主義者クリフォード・カークパトリックは、1930 年代に発表した著作で、ドイツにおける女性活動家を二種類に区分している。一つは男女に同一の権利を要求した「抗議タイプ」で、普遍性を重んじ、人間の平等を肯定する啓蒙主義的な信念だった。社会主義者や中産階級の女性運動の陣営では、1914 年以前にはこのような見解が優勢で、社会主義者は経済的な平等を強調し、自由主義者は法的・政治的平等を主張していた。

年を追うごとにこれとは異なる見解が浸透してゆき、カークパトリックはこちらの支持者を「女性的タイプ」と名付けている。彼女たちは女性の男性化を恐れ、公的領域のなかでも女性にふさわしいと考えられる分野にのみ影響力を及ぼすよう努めた。「女らしい」運動は女性独特の理想主義、誠実さ、献身などを強調することによって、男女の平等論議に色を添えていた。1920 年代になると、「女性的」な女たちが勝利をおさめた。(Clifford Kirkpatrick, Nazi Germany: Its Women and ItsFamily Life, New York 1938)

70 から 80 の組織の連合体でゲルトルート・ボイマーとヘレーネ・ランゲが指導していた中産階級の女性団体、ドイツ婦人団体連合も法的な平等へ向けての闘争から 女性の特性を生かした活動へと転換していった。1918 年以前の時期には、女性たちは大きな意見の相違はあっても、公的生活の場から排除されているという点では一体感を持っていた。だが女性議員が国会に登場するやいなや、この連帯感は葬られた。離婚法改正案、女性保護法案、教育や人工中絶や公衆道徳に関する様々な法律も議論が分裂し、政治に関与するようになってからの十年間で、成功を収めた法案は家庭での内職をしている女性に対する保護法案と性病撲滅の実施計画の二つにすぎない。

女たちは、1914 年 8 月(第一次世界大戦開戦)に見られたような愛国主義的な情熱を再燃させることが出来ると考えていたが、いざ国会に議席を得てみると深刻な幻滅を味わうことになった。前述のボイマーが友人に心境を打ち明けている―――「高尚な政治は、品位のない動議とか、不純な動議とでもいえるようなものに満ちているので、気がめいってしまいます。 (略) あらゆる議題には個人的利害が絡んでいます。 (略) それに指導者たちは非常に消極的です! もっと自信が持て るようになるまでは、何もできません」(Baeumer to Marianne Weber, April 19,1919. Gertrud Baeumer, Des Lebens wie der liebe Band, Tuebingen, 1956)

3.インフレーションとドイツ社会

* ヴァイマール・ドイツでは、1923 年のインフレーションと 1930 年代の大恐慌の影響が大きかった。

* それに、第一次世界大戦の賠償金支払いが大きくのしかかっていた。 1921 年に決定した金額は、総額 1320 億金マルク。

* インフレ時代のことを、ある女性が歴史家オットー・フリードリヒに語っている――「あのインフレは、中間層全体の貯えを消滅させてしまった。言葉にすればただそれだけのことですが、本当の意味を知ってほしい。それまでのドイツの中流家庭では、父親から持参金をもらわずに結婚する娘などいなかった。メイドでさえ、結婚できるように一生懸命貯金していました。でも、その紙幣が紙くず同然になってしまったとき、システム全体が崩壊したのです。結婚までは純潔を守るという考え方も打ち砕かれてしまいました。 (略) 娘たちは純潔などもはや大切ではないということを学んだのです。女性は解放されたのです。」(Otto Friedrich, Before the Deluge. A Portrait of Berlin in the 1920’s, New York: Harper & Row, 1972)

戦争は女性に選挙権を与え、インフレは社会的な開放をもたらした、といえる。

* 1924 年以降、20 億ドル以上の資金が流入し、ドイツの経済復興の原動力となった。巨大企業は多額の融資を受けて、新しい工場を建設し、小さな競争相手を駆逐していった。1928 年頃までには、全労働者の 55%が全工場の 2%に集中するようになっていた。自国の工業生産高と賃金が 1913 年当時の水準にとどまっていたイギリスとフランスがドイツは戦争に負けて安定を勝ち取ったと非難したほどの復興だった。 ドイツの統計によれば、国民総生産は戦前より 12%増加していたし、輸出額は戦前の最高額をも上回っていた。ドイツは 1920 年代後半までに、ヨーロッパ諸国で一番生活水準が高いという国際的な評価を得るようになった。1922 年に最初のトーキー映画が上映され、1929 年にはドイツの技術陣が最初のテレビ番組を放送している。しかも、驚嘆する技術革新は、ツェッペリン飛行船であった。

生産は上昇し混乱は終息して、政治的にも安定がおとずれた。有権者は穏健派の候補者に投票することで満足感を得た。1928 年の国会議員選挙では、ナチ党への投票 率は全体のわずか 2.6%にすぎず、中道政党の連合が国会の過半数を占めていた。

(女性の経済的自立の実態

* 1929 年までに、2500 人の女医と、300 人の弁護士、数十人の女性裁判官と女性教授が誕生していた。女性は大学の全学生の 5 分の 1 に迫る勢いで、彼女たちの大学への進学状況は明るい未来を象徴していた。アメリカと比べてみても、専門職に占める女性の割合がアメリカでは前世紀から低下しつづけていたし、賃金労働者に占める女性の割合が 15%であったのに対し、ドイツでは約 3 分の 1 に達していた。これからもドイツ女性の経済的自立が示されている。

* ヴァイマール共和国時代のドイツ女性は、女性の就業が増加するにつれて労働条件が悪化することを指摘していた。1920 年代には全既婚女性の 3 分の 1 が就労していたドイツでは、大多数の既婚女性が慢性的な重労働と低賃金にあえいでいた。

1928 年に繊維労働組合が女性労働者の生活実態に関する調査を行い、158 人の手記「私の労働日と休日」が残されているが、日常生活の一端を垣間見ることが出来る。この手記集を読むと、若い女性が労働に幻滅していたことがわかる。―――「一週間をどうにか生き延びて週末に息を吹き返す」、「夕方になると獄舎の扉が開くように感じる」、目覚まし時計の音、工場のサイレンに支配されながら、女性労働者は必要最低限度のものを家族に与えようと必死になって機械的に日々の生活を送っていたのだった。 (Deutschen Textilarbeiter-Verband ed., Mein Arbeitstag Mein Wochenende, 150 Berichte von Textilarbeiterinnen, Berlin, 1930) 彼女たちは“職業”についていたのではなく、単に“賃労働”をしていただけだった。その賃金で解放を買うことは出来なかった。

4.何が女性をナチ党に引きつけたのか

他の政党のいずれも伝統的な女性の役割を支持していたし、幹部となることを認め、女性問題への発言権を与えていたというのに・・・。

ヒトラーの重要な政治的主張のうち、ヴェルサイユ条約の排斥、ボルシェビキの脅威の打倒などは、他の保守政党のそれと似通っていた。ただ、ヒトラーはそれに加えて二つの闘争を加えていた。人種戦争と男女間の戦争であった。男女を分離し、ユダヤ人を追放するという二つの生物学的原理については、ヒトラーは決して手加減しなかった。

ナチ理論家のゴットフリート・フェダー(Gottfried Feder)はこの二つを結び付けている。「平等主義という名の狂気のドラマが、女性の解放と同じくユダヤ人の解放をもたらしたことは確かである。ユダヤ人はわれわれから女性を奪った。われわれは女性を従僕という神聖な立場に復帰させるため、この龍を殺さなければならない。」また、アルフレート・ローゼンベルクも著書「ニ十世紀の神話」の中で一夫多妻制を唱え、子供のいない夫に姦通を奨励した。

ヒトラーの部下も―――「ナチ運動は、政治権力に関する限り完全に男の問題だ。(略)本当の女性は、国家社会主義という男性原理に心から敬意を払っているものと信じている。そうすることによって初めて、女性は完全な女性になるのだ!」ナチ党員が増加しているとはいえ、1928 年までに入党した者は 10 万人をわずかに上回る程度で、ドイツ婦人団体連合にはその 5 倍以上、社会民主党には優に 100 万人を越える党員がいた。それに、ナチの支持票は 1924 年の 200 万人弱から 1928 年には 80 万人へと減少していた。一方 3000 万人以上のドイツ人が六大政党を選んでいたので、ヒトラーの運動は殆ど警戒心を呼び起こさなかった。

* このようななかで、ナチが 1920 年代に大衆の支持を獲得していく過程で女性が重要な役割を果たしていたことを、アメリカの新聞記者が 1932 年に回想している―――「女性はヒトラー主義の強力な柱の一つだった。(中略)ナチの集会では女性の割合が驚くほど高い。ヒトラーはドイツの“弱い性”を引き付けるものを持っているが、これは心理学者が分析しなければならない課題である。女性から参政権を奪い、彼女たちを台所仕事に復帰させたいとナチが望んでいるだけに、女性のこのような関心は予想外のことだった」(The Battlecries of Hitlerism Modified as Election Years, New York Times,July 10, 1932)

この記者は、ナチ集会で見られるグループについて次のようにも述べている―「堕落した芸術家、過剰な負担にあえぐ下層中間層、不満を持つ農民、将来への希望を与えない社会に憤慨する大学生。だが、ナチズムの最も熱狂的な支持者は女性のなかに見られる」ニューヨーク・タイムズの記者ミリアム・ビアードも、何千人もの女性がナチ集会に参加しているのを観察して、「なぜドイツの女性は、彼女たちから投票権を取り上げようとしている集団に投票するのだろうか」と述べている。(Miriam Beard, The Tune Hitler Beats. New York Times, June 7, 1931)

他の政党に投票した何百万人もの女性とナチ女性との違いは何だったのか?

ナチ以外の政治運動に加わっていた女性は、自分たちの関心を男性の活動領域に持ち込んでいったのに対して、ナチ女性はカトリックやプロテスタントの非政治的な組織のメンバーと同様に、全国的に政治の枠組みの外で活動していた。男性社会の中で競争するより、男性が介入できない女性独自の領域の中で活動の幅を広げ、男性には外敵から守ってもらう、と考えた。その考えの中には、「男性は決して変わらない」、フェミニストたちが男女平等を求めて活動していたのに対し、ナチ女性は、強い男性が公共の場を支配し、かよわい女性の領分を守ってくれる、というヒトラーの運動に「二流の性」として参加することを受け入れたのだった。

* 1920 年代ヒトラーは、ナチ国家における女性の役割について、次のように構想した―――「ドイツの娘は国籍を有し、結婚と共に公民となる」後に補足として 「結婚しない女性には、国民のために重要な役割を果たしたときにのみ公民権が与えられる」を付け加えた。(Hitler, Mein Kampf)

“女性は何の権利も持たずに生まれ、男性が権利を与える”という原理である。男性は多くの点で国家に奉仕することが出来るが、女性にとっての本当の天職は最も狭義の生物学的用語=結婚しかないという考えである。“種”と“民族の増加と存続”が「結婚の意味であり務めである」とされ、ナチ国家が誕生したときには、男性が政治・経済・軍事を支配するのに対して、女性は「健全な子供を育てる」ことであった。(Hitler, Mein Kampf)

* ナチ党綱領第 21 項に唯一女性に関する項目がある―――“ナチ党は母親を保護することを誓う”

* 人々の怒りの対象として、ヒトラーは「ユダヤ人」と「新しい女性」を常に取り上げた。女性を愛すべき存在であるとするレトリックは、ある意味で憎悪に満ちたユダヤ人観と表裏一体のものと言えるだろう。

* ナチ党の女性蔑視、露骨な言葉で侮辱する風潮は、ユリウス・シュトライヒャーの雑誌「突撃隊」やローゼンベルクの「二十世紀の神話」などに明らかなのに、なぜ女性は気づかなかったのか。ユダヤ人や一部のカトリック教徒はヒトラーからの敵意に気づき、敬遠するようになったのに・・・。

ヒトラーの支持者を含め多くのドイツ人は、ユダヤ人と女性問題に関してヒトラーの言うことをまじめに受け取っていなかった。一般の有権者も「私は国家を信頼している。共産主義者を憎んでいて、ヴェルサイユ条約にも報復したいと思っている。もちろんあの男は正気とは思えない。だがいったん権力を握ったら、あんなおかしい計画は取りやめるだろう」と。

ナチ女性も、ヒトラーは決して女性を繁殖用の雌馬にはしない、権力を握れば彼の極端な態度もおさまるだろう、と信じていた。ヒトラーも他のナチ党の高官とは異なり、人前で女性を侮辱することを避けていたこともあった。

* ヒトラーのカリスマ性、演技力についてアメリカ、イギリスの女性記者も次のように語っている―――「彼が自分の母親のことを愛情こめて語り、主婦の苦労を優しくねぎらい、ドイツ女性のこれまでの業績、ナチ運動のために女性は何ができるのかを語っていくうちに、聴衆は涙にくれるのだった」(Louis Lochner, What About Germany?,NewYork, 1942) 「ヒトラーの言葉には力があった。彼は感情表現が巧みだった。感傷的で、決して知的ではなかった。(中略) 女性にとって昼も夜も夢の中で、じっと見つめてしまうような、心をゆさぶる姿だった」(Katharine Thomas, Women in NaziGermany. London, 1943)


5.ヒトラー権力掌握(1933 年 1 月 30 日)

* 1933 年 1 月にナチ党が権力を掌握すると、労働市場から女性を排除し家庭に戻す政策がとられた。

1933 年以前に上級職に任命されていた女性官僚 74 人のうち、1933 年以降その職にとどまった者は一人もいない。1 万 9000 人近くいた州やその他自治体の女性官僚は全員その地位を失った。またあらゆる教育段階における女性教師の数も 15%減少した。1934年初頭までに、プロイセンの官僚機構からすべての既婚女性が解雇された。(Winkler,Frauenarbeit im “Dritten Reich”; David Shoenbaum, Hitler’s Social Revolution,Class and Status in Nazi Germany, New York, 1980)

女性は法曹界では全体の 3%をしめるにすぎなかったが、1936 年以降、たとえナチ党員であっても女性は判事や検事の職につくことができなくなった。「論理的に考えたり客観的に推論する」ことができないという理由から、陪審員からも排除された。さらに既婚の女性医師が開業することが出来なくなり、1935 年までに女性医師がユダヤ人医師と同様に、国民健康保険制度の支払いを受けることもできなくなった。

* ナチを「煽動家の集まり」とか「下層階級」と軽蔑していた女性組織は、新しい状況に巧みに順応していった。ナチ婦人団の団員数も、1933 年の 1 年間で 8 倍も増加している。これほど簡単に適応してしまうとは党指導部も予想外で、逆に中産階級の女性指導者の熱意をどのように組織化するかという問題に頭を悩ますこととなった。

外国のフェミニストの予想に反して、ドイツの主要な女性組織はナチ国家に対して女性の権利を守るどころか、逆にナチ政府との一体化のプロセスを早めていった。これは、中産階級の女性運動は母性に関するヒトラーの理念に同意をしていたのだし、ナショナリズムをも信奉していたので、秩序の回復、愛国心の復活を約束する独裁政治を受け入れることは容易だった。ヒトラーのやり方に疑念を抱きつつも、彼女たちは彼のナショナリズム、反民主主義、反共産主義という姿勢を歓迎したのである。

* 1933 年 5 月上旬、ドイツ婦人団体連合を服従するよりは解散に導いたアグネス・フォン・ツァーン=ハーナックは公の場で不満を訴えた―――「今後の展開が気がかりです。夥しい数の女性行政官が解任され、その後任に任命された女性は二人だけです。女性の社会的、文化的領域に直接関係する活動分野が、あきらかに男性の手に渡ってしまいました。」(Agnes von Zahn-Harnack, ”Frauenbewegung und Nationale Revolution”Deutsche Allgemeine Zeitung, April 30, 1933)

* 中産階級の女性指導者が自分の仕事や組織を必死に守ろうとした動きを見れば、彼女たちに不屈の精神が備わっていたことがわかる。しかし、このような逞しい彼女たちもユダヤ人の組織からの追放というナチの方針に反対の意すら表明していない。指導層はじめ一般会員からも、追放を命じられたとき抗議の嵐どころか小ぬか雨すらも降らなかった。従順でありながら自己の利益を擁護するという彼女たちの行動様式を示す話をいくつか挙げる。

例えば―――ヴァイマール政府で上級公務員として最も高い地位にあったゲルトルート・ボイマー(Gertrud Baeumer)は、ヒトラーの首相就任数週間後に内務省での地位を失った。その後彼女の解任は女性に対する冒とくであるとする抗議の電報や手紙がナチ政府や党首脳部に殺到したが、ボイマー自身は自己弁護しなかった。

後に自身の履歴書の中で「1919 年にドイツ民主党を創設したフリードリヒ・ナウマンとの協力関係にあり、民主党の国民社会主義派の一員として活動していた」と弁明しているが、その後の新しい地位の誘いには応じなかった。その後 12 年間ボイマーは公的な場におけるナチ政策の批判を避けながら、女性の就業機会の拡大を擁護する穏やかな発言を続けていた。ボイマーの名前が「婦人」の発行人の欄から数か月にわたって消えたものの、その間も定期的に寄稿を続けていた。学問上の仕事では再び中世というテーマに取り組んでいる。ボイマーは戦後、ナチ時代を通して自分の原則に反するような言葉は一語たりとも書いたことがないと述べている。

* ヴァイマール共和国の誕生とともに生まれた「新しい女性」に対する反動として、女性保守層の家庭回帰の動きがナチ党の政策と一致することとなる。

ナチ党の理論家・アルフレート・ローゼンベルク(Alfred Rosenberg)のスローガン “女性解放からの女性の解放!”

教育も訓練も受けていなかった一般の女性は、「解放からの解放!」を望んでいた。ドイツ全既婚者の 3 分の2は、自分のことを何よりも主婦だと考えていた。男性の既得権を脅かすのではなく、強化するのだと言い、デカダンスに反対し、伝統的な道徳の擁護に乗り出した。主婦は男性の性的放縦を抑制し、公衆道徳の浄化を行おうとした。自由主義者がヴァイマール文化の先例のない自由を称賛したのとは反対に、これらの伝統主義者は過度の自由に対する防衛に努め、女性による愛国的市民団体の会員数を増やしていった。

引用:ナチス・ドイツと女性 http://www.smile-kai.com/report/20170223umezu_resume.pdf
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