メルケルがマルクス・レーニン主義をどう捉えていたのかも興味深い。
コーネリウスによると、メルケルは、東ドイツで物理学の論文とともにマルクス・レーニン主義に関する論稿を書いたと告白したことがある。東ドイツでは、物理学専攻の学生と言えども学位の取得に向けてマルクス・レーニン主義の研究成果も発表しなければならず、メルケルもその義務の下で、おそらくは渋々、論稿を提出した。
どうやら、農民・労働者の関係について書いたらしいが、1990年代前半のあるとき、メルケルは旧東ドイツの地元の集会で、冗談交じりに「あまりに農民を評価しすぎたために点数が低かった」と話した。東の有権者だたために警戒心が緩んだのかもしれない。東では皆、多かれ少なかれ、「体制」と折り合って生きていた以上、メルケンのような学生がマルクス・レーニン主義を称賛する論稿を書くのは当然だった。
だが、それを聞いた、おそらく西ドイツ出身のジャーナリストらは意地の悪い興味を持ち、さっそくメルケンの母校であるライプチヒ大学で論文を漁った。保守党に加わり、コールに目をかけられていたメルケルが、労働者と農民の国である東ドイツの社会主義イデオロギーへの賛歌をしたためていたとすれば、かなりスキャンダル記事になる。シュタージとの協力疑惑によって東ドイツ出身の政治家が次々と失脚していた1990年代の空気からすれば、「マルクス主義論稿」の確認はメルケルに大きな打撃ともなっただろう。
だが、論稿はとうとう見つからず、今日まで行方不明となっている。
論稿がどこに消えてしまったのかは分からないが大学が長時間、保管すべき種類のものではなかったことも考えられる。学位論文ではなく、あくまで履修の一環として課せられる、いわばレポートのようなものだったと思われる。
が、東ドイツの社会主義体制を克服した統一ドイツの首相ともあろう人物が、仮に強制されたにせよ、マルクス・レーニン主義への肯定的文章を書いていたというのは、確かに外聞が悪い。その上、今読むことができないとなると、本来、それほど怪しくなかったものも必要以上に疑念がふくらんでしまうことになる。
メルケルは、変に釈明すると、かえって事を荒立ててしまうと思ったらしく、この件には貝のように口を閉ざしているが、ひょっとすると米情報機関はメルケルの半生に刻み込まれたこんな傷口にも興味を持っていたのかもしれない。
(引用:女帝 メルケルの謎より)
0 件のコメント: