現代中国画の巨匠・斉白石は、なぜ日本人に絵を描くことを拒否したのか

現代中国学
現代中国学―「阿Q」は死んだか (中公新書)

 昭和20年日本は敗戦国となった。しかし、中国では、またたくまに国民派と共産党派との内戦状態となり、結局前者は台湾に遷り、後者は北京においてそれぞれの政権の正統性を今も主張している。斉白石一家の場合、このとき家族は四散し、台湾に移った者もいたが、彼は北京にとどまった。その斉白石に対して、現在、両政府はともに高い評価を与えている。その共通点の一つは、日本軍閥への抵抗があったとする。すなわち日中戦争のころ、門を閉ざして日本人に絵を描くことを拒否したからである、と、これは名女形(おやま)の梅蘭芳(メイランファン)が、ひげを生やして舞台に上がらず抵抗したことと並んで高く評価されている。

しかし、この話は真実からほど遠い。斉白石は国家や社会などに関心がなかった。たとえば清朝が倒れ辛亥革命(明治44年・1922)の前、彼(46歳)は、革命派の中心、孫文らの同盟会の秘密文書の連絡に協力したことがあったが、まさに連絡程度であって、辛亥革命の意義などてんで理解できなかった。

さて、昭和14年(1939)、日中戦争のころ、彼(77歳)が、家の門に貼り出した抵抗の文面とされるものの内容と理由との真実はこうである。「中外官庁」と言ってるからおそらく満州国政府の中国人や外国人(日本人)の官僚たち、いわゆる偉い人たちが彼の絵を求めに直接訪れた。中国における官僚たちは権力を背景としていたから、代金を値切ったし、斉白石自身も恐ろしくて値引いていた。 そこで彼は「お上は直接来ないで下さい。お買い求めのときは代理人をよこして下さい」と貼り出した。その文面中「従来、官ハ民家二入ラズ。官、民家二入レバ、利アラズ」とある。値切られるわ、お接待をせねばならぬわで、節約かの斉白石には、堪え難かったのである。そのころ物価が激しく上昇していたため、自分は一生懸命絵を描いたり印を彫ったりしなくてはならなかったとも言っているからよけいであった。しかし、それでも人は来た。そこでさらに「値下げ絶対お断り。お接待絶対お断り。写真撮影絶対お断り」と貼りだした。そして「値下げ絶対お断り」の下に注を加えた。「私はもう80です。紙一尺あたりの画料は6円ですが、1円分ごとに二画を割り増しします」と。そしてまた貼り出した。「お売りするときは(ビジネスですから)情をまじえません。紳士的に、どうか相場どおりお支払いください」と。なにも日本軍や満州帝国への抵抗などではなく、収入防衛のため、思いついてはそのたびごとに門に紙を貼り出していた老職人の姿があるだけである。

(引用)現代中国学―「阿Q」は死んだか (中公新書)

斉白石
斉 白石
斉 白石
斉 白石(せい/さい はくせき)は清末から中華人民共和国の画家 ・書家・篆刻家である。現代中国画の巨匠と評される。wiki/斉白石

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